一生成仏

一生成仏(いっしょうじょうぶつ)

信心の根本的な目的は、私たち自身が仏の境涯を得ることです。

御本尊を信受して純真に自行化他の実践に励むなら、どのような人でも必ず一生のうちに成仏の境涯を得ることができるのです。これを「一生成仏」といいます。

自行化他の「自行」とは、自分自身が利益を受けるために修行すること。「化他」とは、他人に利益を受けさせるために教え導くことです。具体的には、勤行・唱題に励むとともに、仏法を語り、教え導く弘教の実践です。

日蓮大聖人は「法華経の行者は、如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし。譬えば、春夏、田を作るに、早晩あれども、一年の中には必ずこれを納む」(416㌻、通解──法華経の行者は、仏の説いた通りに修行するなら、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる。譬えば、春、夏に田を作るのに、早く実る品種と遅く実る品種の違いがあっても、どちらも一年のうちには必ず収穫できるようなものである)と述べられています。

成仏とは、現在の自分と全く異なった特別な人間になるとか、死後に次の一生で現実世界を離れた浄土に生まれるなどということではありません。

御書には成仏の「成」について「成は開く義なり」(753㌻)とあります。成仏とは、自身の内に具わる仏の生命境涯(仏界)を開くことにほかなりません。

「凡夫」すなわち普通の人間である私たちが、その身のままで、自身に仏の生命境涯を開き顕せるのです。それゆえ、「凡夫成仏」とも、「即身成仏」ともいいます。

成仏とは、他の世界に行くことではなく、あくまでもこの現実世界において、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいうのです。

御書に「桜梅桃李の己己の当体を改めずして、無作三身と開見す」(784㌻、通解──桜、梅、桃、李がそれぞれの特質を持つように、私たちもそれぞれの特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると開き顕れるのである=「無作三身の仏」とは何も飾らないそのままの姿で仏の特質をすべて具えている真実の仏のこと)と仰せのように、成仏とは、自分自身が本来持っている特質を生かしきって、自身をもっとも充実させていく生き方をすることです。

すなわち、成仏とは、生命の全体が浄化され、本来もっているはたらきを十分に発揮して、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い境涯になることをいいます。

また、成仏とはゴール(終着点)に到達するということではありません。妙法を受持して、悪を滅し善を生ずる戦いを続けていく、その境涯が仏の境涯なのです。

間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏なのです。

凡夫成仏(ぼんぷじょうぶつ)・即身成仏(そくしんじょうぶつ)

「凡夫」とは、普通の人間のことです。法華経では、凡夫の身に本来、仏の境涯が具わっていて開き顕すことができると明かされています。普通の人間の身に、偉大な仏の境涯を開いていけるのです。これを「凡夫即極」とも、「凡夫即仏」ともいいます。

成仏とは、人間に具わる本来の仏の境地(本有の仏界)を現すことであって、人間からかけ離れた特別な存在になることではありません。凡夫の身に仏という最高の人間性を開き顕すことが大聖人の成仏観です。

このような成仏を「即身成仏」といいます。即身成仏とは、衆生が、死んで生まれ変わって現実の凡夫の身を改めることなく、仏の境涯を得ることをいいます。

法華経以外の諸経では、「成仏」が説かれていても、少なくとも二つのことが条件とされていました。

一つは、二乗(声聞・縁覚)・悪人・女人ではないことです。

二乗は、自分たちは偉大な仏には成れないと決め込んで阿羅漢(声聞の教えでの最高の覚りを得る人)を目指すにとどまり、煩悩を完全になくした境地として心身を滅することを目指します。このような二乗に対して、大乗の諸経典は、成仏できないと厳しく非難しました。

また衆生が悪人であるなら善人に生まれ変わることが必要であり、女性であるなら男性に生まれ変わることが必要であると考えられていました。悪人や女性が、その身のままで成仏することはできないとされていたのです。成仏を説いてはいても、現実に成仏できる条件を満たす人は限定されていたのです。

二つには、何度も何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、凡夫の境涯を脱して仏の境涯に到達するとされたことです。

凡夫の身のままで一生のうちに成仏

これに対して、法華経では、成仏とは「仏という特別な存在に成る」ことではなく、自身のその身に「仏界の生命境涯を開く」ことであると説いたのです。

大聖人は、あらゆる仏を仏たらしめている根源の法そのものを、南無妙法蓮華経であると明かされました。そして、根源の法と一体となった大聖人御自身の御生命を、南無妙法蓮華経の御本尊として顕されたのです。

私たちは、南無妙法蓮華経の御本尊を信受することで、だれもが自らの生命に仏界を開き顕すことが可能になりました。

日寛上人は次のように述べています。

「我らこの本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(『日寛上人 文段集』)

御本尊を信受し、広宣流布の実践と信心を貫けば、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命境涯を開き顕すことができるのです。

なお、凡夫の身のままで成仏できることを即身成仏、一生のうちに成仏できることを一生成仏といいますが、どちらも同じ法理を表現した言葉です。

* 日寛上人は江戸時代の学僧で、日蓮大聖人から日興上人に受け継がれた仏法の法理を整理し宣揚した。

煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)・生死即涅槃(しょうじそくねはん)

即身成仏の法理を、別な角度から表したのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。

小乗教と呼ばれる諸経典では、苦悩の原因は自分自身の煩悩にあると説き、苦悩を解決するには煩悩を消滅させる以外にはないとして、多くの戒律を守り修行を積み重ねて解脱(覚りによる苦悩からの解放)を求めました。

しかし、煩悩を完全になくした境地として、心身を消滅させ、この世に再び生まれないことを目指す生き方は、結局、生命自体を否定することになります。

権大乗教と呼ばれる諸経典では、小乗教を実践する二乗や、悪人・女性の成仏を否定します。

実質的には小乗教と同じく、凡夫と仏の間に乗り越えがたい断絶がある考え方です。
仏についても、阿弥陀仏や大日如来など、人間を超越し、現実世界から遊離した別世界に住む架空の仏を説きます。

凡夫が仏に成るためには、いくつもの生の間、仏の覚りの境地を一部分ずつ順次に学んで修行し、身に付けていかなければならないと説きます。

また、偉大な仏には自分の力ではなれないと考え、仏の絶対的な力で救われることを強調する考えも現れます。

これに対して法華経では、慈悲と智慧に満ちた仏の境地が、あらゆる衆生に本来的に具わっていて、それを開き顕すことによって成仏できることが明かされました。

煩悩に覆われ、悪業を積み、苦悩にさいなまれている凡夫であっても、自身の内に仏界が具わっているという真実に目覚めれば、仏の覚り(菩提)の智慧を発揮し、苦悩から解放され、自在の境地を得ることができるのです。

煩悩に覆われた苦悩の身が、そのまま菩提の智慧に輝く自在の身となるのです。この法理を「煩悩即菩提」といいます。

日蓮大聖人は、自身の内なる仏界とは、南無妙法蓮華経であると示されています。

私たちは、南無妙法蓮華経の御本尊を信じて題目を唱え、尊厳なる本当の自分に目覚めれば、生き抜く智慧がわき、苦難に挑戦し、乗り越える確信と勇気が出て、他の人を思いやる慈悲も現れてくるのです。

「生死即涅槃」とは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていけば、生死によってもたらされる苦しみの境涯にある生命に、仏の覚りによって得られる安穏な境涯(涅槃)を開き顕していけることを示しています。

「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理は、妙法の信心に立脚する時、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方が可能になることを教えているのです。

相対的幸福と絶対的幸福

第2代会長戸田城聖先生は、幸福には「相対的幸福」と「絶対的幸福」があると述べています。

相対的幸福とは、物質的に充足したり、欲望が満ち足りた状態をいいます。しかし、欲望には際限がないし、たとえ、一時は満ち足りたようでも永続性はありません。外の条件が整った場合に成立する幸福なので、条件が崩れた場合には、その幸福も消えてしまいます。

これに対して、絶対的幸福とは、どこにいても、また、何があっても、生きていること自体が幸福である、楽しいという境涯をいいます。それは外の条件に左右されることのない幸福なので、絶対的幸福というのです。成仏とは、この絶対的幸福境涯の確立をいいます。

現実世界に住んでいる以上、人生にさまざまな苦難はつきものです。しかし、山登りに譬えていえば、頑健な体の持ち主が、少々重い荷物を背負っても悠々と山道を登ることができるように、自身の生命に絶対的幸福境涯を確立した人は、さまざまな困難が起こったとしても、その困難をバネとして、強い生命力を湧き出させ、逆境を悠々と乗り越えていくことができます。

そして頑健な人は、むしろ、山道が険しければ険しいほど、それを克服していく喜びを味わいます。それと同じように、あらゆる困難を乗り越えていく生命力と智慧を身につけた人にとっては、困難が渦巻く現実世界そのものが、充実感に満ちた価値創造の場となるのです。

また、環境に依存する相対的幸福が「死」によって途絶えるのに対し、絶対的幸福である仏の境涯は、「自身、法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(724㌻、通解──わが身が、妙法の大地を生死生死とめぐり行くのである)と仰せのように、死をも超えて存続していくのです。