人生には、必ず苦難が伴います。また、広宣流布の戦いには、必ず困難があります。ここでは、私たちが仏法を実践していく過程に必ず生ずるさまざまな「難」について学び、「難を乗り越える信心」を確認します。
一生成仏を目指す私たちは、生涯にわたって信心を貫いていくことが大事です。
しかし、信心を持続するなかには、難が必ず現れてきます。このことを知って、いかなる難にも崩されない自身の信心を確立していくことが肝要です。
では、正しい法(正法)を持った人が、なぜ難にあうのでしょうか。
まず、正法を信じ行じて成仏の境涯を目指すということは、自身の生命を根底から変革させていくことです。どんな変革にあってもそうですが、仏道修行においても、その変革を起こさせまいとするはたらきが、自身の生命自体や、あるいは周囲の人間関係の中に生ずるのです。ちょうど、船が進むときに抵抗で波が起こるようなものです。
成仏を目指す仏道修行の途上に起こる、このような障害に「三障四魔」があります。
また、法華経には、末法濁悪の世に法華経を広める「法華経の行者」に対して「三類の強敵」が現れ、迫害することが説かれています。
これは釈尊入滅後の悪世において、一切衆生の成仏を願って、法華経を広宣流布しようとする実践のあるところに起こってくる迫害です。また、この三類の強敵の出現は、真実の法華経の行者であることの証となるのです。
「兄弟抄」には、次のように述べられています。
「第五の巻にいわく『行解既に勤めぬれば、三障四魔、紛然として競い起こる。乃至随うべからず、畏るべからず。これに随えば、まさに人をして悪道に向かわしむ。これを畏れば、正法を修することを妨ぐ』等云云。この釈は、日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習い伝えて、未来の資糧とせよ」
(1087㌻、通解──天台の『摩訶止観』の第5巻には、次のように述べられている。「修行が進み、仏法の理解が深まってくると、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。……これに随ってはならない。恐れてもならない。これに随ったなら三障四魔は人を悪道に向かわせる。これを恐れたなら仏道修行を妨げられる」。この釈の文は、日蓮の身に当てはまるだけではなく、わが門流の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたって信心の糧とすべきである)
このように、正法を信じ行ずるときに、信心が深まり実践が進んでいくと、これを阻もうとして起こるはたらきに、「三障四魔」、すなわち、三つの障りや四つの魔があります。
三障四魔の具体的な内容について、日蓮大聖人は、「兄弟抄」で次のように説かれています。
「三障と申すは煩悩障・業障・報障なり。煩悩障と申すは、貪・瞋・癡等によりて障礙出来すべし。業障と申すは、妻子等によりて障礙出来すべし。報障と申すは、国主・父母等によりて障礙出来すべし。また四魔の中に天子魔と申すもかくのごとし」(1088㌻)と。
まず、三障の「障」とは、障り、妨げということで、信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げるはたらきをいいます。
これに、煩悩障、業障、報障の三つがあります。
煩悩障とは、貪り、瞋り、癡かなどの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。
業障とは、悪業(悪い行いの集積)によって生ずる信仰や仏道修行への妨げです。「兄弟抄」の御文では、具体的に妻子などの身近な存在によって起こる妨げが挙げられています。
報障とは、過去世の悪業の報いとして、現世に受けた境涯が、仏道修行の障りとなることをいいます。「兄弟抄」の御文では、国主や父母など、自分が従わなければならない存在によって起こる妨げが挙げられています。
次に、四魔の「魔」とは、信心修行者の生命から、妙法の当体としての生命の輝きを奪うはたらきをいいます。
四魔とは、陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つをいいます。
陰魔とは、信心修行者の五陰(肉体や心のはたらき)の活動の不調和が信心修行の妨げとなることです。
煩悩魔とは貪り、瞋り、癡かなどの煩悩が起こって信心を破壊することです。
死魔とは、修行者の生命を絶つことによって、修行を妨げようとする魔です。また、他の修行者などの死によって、信心に疑いを生ずることも、死魔に負けた姿といえます。
最後に、天子魔とは、他化自在天子魔の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による妨げであり、最も本源的な魔です。
大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997㌻)と仰せです。
すなわち、この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者などの生命にあらわれるなど、いろいろな形をとり、あらゆる力をもって、正しい修行者に迫害を加えていきます。
以上のように、私たちの仏道修行の途上においては、障害や苦難が競い起こってきます。
ここで注意しなければならないことは、貪・瞋・癡などの煩悩や、妻や夫、子、父母、五陰、死といっても、それら自体が障魔であるというのではなく、これに引きずられる信心修行者の弱い生命にとって、三障四魔のはたらきとなってしまう、ということです。
釈尊も、さまざまに起こる心の迷いを魔のはたらきであると見抜いて覚りました。私たちにとって、魔を打ち破るものは、何事にも紛動されない強い信心です。
大聖人は「しおのひるとみつと、月の出ずるといると、夏と秋と冬と春とのさかいには、必ず相違する事あり。凡夫の仏になる、またかくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび愚者は退く、これなり」(1091㌻)と仰せです。
三障四魔が出現した時こそ、成仏への大きな前進の時と確信して、むしろこれを喜ぶ賢者の信心で、乗り越えていくことが大切なのです。