日々の活動

折伏や対話を実践していくと、さまざまな反応があります

成仏の「種」を植えるのが「下種(げしゅ)」

私たちは、「折伏・弘教」を実践していくと、さまざまな反応に出あいます。
仏法の話を聞いてすぐに理解し共感してくれる人。また逆に、反発し批判をする人。人によって、態度は異なります。

仏法の話を他の人たちに聞かせていくことを、成仏のための種(原因)を人々の心(生命)に植えるという意味で、「下種(仏種を下ろすこと)」と呼んでいます。

日蓮大聖人の仏法について語り、御本尊の偉大な功力を教えることは、相手の生命に妙法の“種”を植えたことになり、やがていつか“芽”を出してくることは間違いないのです。

この「下種」は、「聞法(もんぽう)下種」と「発心(ほっしん)下種」の二つに分けられます。法を聞かせるというのが「聞法下種」であり、信受させるのが「発心下種」です。

戸田先生は、この聞法下種と発心下種を、折伏・弘教の実践に当てはめて次のように指導しています。

「下種には聞法下種と、発心下種の二種類がある。初めて会って折伏した。けれど信心しなかった。これは聞法下種である。ところが、次の人が行って折伏し、御本尊様をいただかせた。これは発心下種である。どちらも下種には変わりはない。功徳は同じである」

御書に「法華経を一字一句でも唱え、また人にも語っていく人は仏の使いです」(1121ページ、趣意)と仰せのように、仏法を語り弘める行為は仏の使いとしての振る舞いであり、尊い修行であり、広大な功徳の源泉であることはいうまでもありません。

大聖人は「とにかくも法華経を強いて説き聞かせていくべきである」(御書552ページ、趣意)と仰せです。

相手が仏法を信じても、信じなくても、仏法の偉大さ、素晴らしさを語り、広く仏縁を結ぶことこそが「折伏・弘教」の実践となり、その功徳は、はかりしれないものがあるのです。

謗法(ほうぼう)について

一方、日蓮大聖人の仏法は「謗法」を厳しく戒めています。「謗法」とは「誹謗正法」、つまり「正法を誹謗する(=そしる、悪口を言う、敵対する)こと」です。

例えば、いくら御本尊を真剣に拝んでいるようでも、同時に同じ人が別の信仰対象を拝んでいれば、それは謗法となります。御本尊に対する信仰は「唯一無二」の姿勢でなくてはなりません。

そのうえで現実の生活にあって修学旅行や仕事で、どうしても神社仏閣に行かなければならないことがあるかもしれませんが、その場合は、その宗教を信じ、「拝む」のが目的でなければ謗法ではなく、全く問題はありません。

あくまでも「法に背く」行為かどうか――そこに、「謗法」かどうかの判断基準があるのです。