私たちの信仰の根本指針の一つに「実践の教学」が挙げられます。
「実践の教学」とは、日蓮大聖人が教え残された「御書」の拝読を根本に、正しい仏法の法理を信仰実践のなかで学び、心に刻んで、御本尊への「信」を深めていくことです。
「御書」とは、大聖人が自ら執筆された論文やお手紙などの著作です。大聖人は、多くの門下に、信心の激励、法門の解説、御供養のお礼、生活指導など、さまざまな内容の著作を送られました。
御書には、仏法を理解するための教えや、信仰を貫くうえでの心構え、そして仏法のうえからの物の見方や考え方が明確に示されています。
「実践」を離れたところに私たちの教学は存在しません。どこまでも信心を深め、実践を豊かにするための研鑽が大事です。
池田先生は、教学の大切さについて、つづっています。
「教学は、人生、生き方の軌道をつくる。教学の研鑽がなくなると、なんのための信心か、わからなくなり、感情や利害に左右され、策略で動くようになってしまうものです」(『新・人間革命』第4巻「青葉」の章)
教学を深めていくならば、私たちの信心の実践を妨げようとする「魔」の本質も分かります。心にある疑問も晴らしていけます。なぜ「難」にあうのか、なぜ「迫害」されるかが道理として理解することができ、ますます信心への確信が強くなります。
池田先生は「苦しい時ほど、必死になって御聖訓を求めた。そのたびに、胸に勇気がわいた。暗闇を破って、不撓不屈の太陽が昇った」と述べています。
日々の生活のなかで御書を拝し、研鑽を積み重ねることは、さまざまな困難に直面した時、それらを乗り越え、希望の人生を大きく切り開いていく智慧の源泉となるのです。
第2次世界大戦中、初代会長の牧口常三郎先生と戸田先生は「信教の自由」を守り抜くために、軍部政府の弾圧を恐れた日蓮正宗宗門からの“神札を受けては”との申し入れを、断固、拒否しました。
そのために治安維持法違反、不敬罪の容疑で逮捕・投獄されました。その時、創価学会の前身であった創価教育学会の多くの幹部たちは退転してしまったのです。
それは、教学がなかったため、「難」の本質が分からず、大聖人の仏法の実践を貫き通すことができなかったためです。
戸田先生が戦後、焼け野原に一人立ち、学会の再建に立ち上がった時、「かつての創価教育学会が壊滅したのは、教学という柱がなかったからである」ことを痛感し、自ら「法華経講義」を開始しています。ここに、学会の「実践の教学」の原点があります。
戸田先生の発願によって、1952年(昭和27年)4月には、『日蓮大聖人御書全集』が完成し、発刊の辞で、「この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事をひたすら祈念して止まぬものである」とつづっています。
恩師のこの念願を、池田先生はそのまま実現してきました。
御書発刊から60年以上を経た今日、人間主義の仏法は全世界へと広がり、御書は英語、スペイン語、フランス語など諸言語に翻訳され、世界の友が大聖人の仏法を御書を通して学び、実践しているのです。
学会の教学は、どこまでも日蓮大聖人の御書を生活のなかで拝し、さらに広宣流布の指標として、活動のなかで生き生きと歓喜の生命で拝していくことに特徴があります。
御書は、大きく法門に関する著作と、大聖人が当時の弟子に与えられたお手紙に分類されます。お手紙といっても、そのなかで大聖人は重要な法門を取り上げられています。
例えば、四条金吾や富木常忍、南条時光などの門下が、それぞれの仏道修行や仕事、日常生活のなかでのさまざまな悩みや疑問を大聖人に手紙で報告していますが、その一つ一つに対して仏法の法門のうえから丁寧に答えられています。
時代は違っても、私たちが、求道の心を燃やして御書を拝読し、真剣に教学を学んでいくならば、必ずや人生と日々の生活への指針を、汲み取ることができるのです。
池田先生は、「御書は『無限の希望』の一書です。御書を拝して行動する限り、行き詰まることは絶対にありません」と指導しています。
また、御書拝読の姿勢として「『御書を学ぼう』『御書を開こう』との一念が大切である。内容を忘れてもいい。生命の奥底では何かが残っている」「明日から御書の一ページでも、一行でも拝読することをお勧めしたい」とも語っています。
難しい御文もありますが、御書を少しでも拝していこう、大聖人の御精神にふれていこうという姿勢と心が大切です。
私たちは日々の学会活動のなかで、御書を拝しながら、「大聖人の仰せ通り」の行動に邁進し、勝利の人生を歩んでいきましょう。
また、御書を研鑽するのは、自身の信心の成長の糧であるとともに、多くの人々に仏法を語っていけるよう教学の力をつけていくためでもあります。
池田先生は語っています。
「仏法を学ぶ喜びが、信心の確信を深める。その確信が、仏法を語る勇気を、満々と漲らせるのである」
「御書には、新世紀の世界が求めてやまない『希望の哲学』『平和の哲学』『生命尊厳の哲学』の光源がある。御書を根本として、未曽有の『生命覚醒の光』を広げていく――なんと壮大なる『新世紀のルネサンス』であろうか」
「信心の深化と成長のため」「正法の実践のため」「広宣流布のため」――すなわち「何のため」の御書の研鑽かを忘れずに、地道に取り組んでいきたいものです。