私たちは日蓮大聖人の仏法の実践を通して、大きな功徳を積み、苦悩に左右される人生を「成仏」という絶対的な幸福境涯へと転換していくことができます。
これは、信心すれば“悩みや苦労がすべてなくなる”ということではありません。むしろ、信仰を貫く途上において、さまざまな苦難や障害に直面することがあります。
こうした仏道修行の途上に起こる障害のなかに、代表的なものとして「三障四魔」があります。すなわち、三種の障りと四つの魔です。
「障」は、障り、つまり邪魔をするという意味で、仏道修行を阻もうとする働きです。
「魔」とは、仏道修行をしようとする生命をむしばみ、心を乱し、生命そのものの輝きを奪う働きです。
「三障」には、「煩悩障(ぼんのうしょう)」「業障(ごうしょう)」「報障(ほうしょう)」の三つがあります。
「煩悩障」とは、貪りや瞋り、癡かといった、自分自身の迷いの生命(=煩悩)が、仏道修行を妨げることです。目先の欲望に振り回されて修行に励めないとか、感情にとらわれて信心をやめてしまうなどが、その例といえます。
「業障」とは、悪い行いが仏道修行を妨げることです。大聖人は、「業障というのは、妻子などによって障りがあらわれることである」(御書1088ページ、趣意)と仰せです。これは、例えば妻子が信心に反対することなどをいいます。
最後の「報障」は、過去世の罪業による悪い果報が信心修行を妨げることをいいます。御書には「報障というのは、国主や父母などによって障りがあらわれることである」(1088ページ、趣意)と仰せです。
一方、四魔とは「陰魔(おんま)」「煩悩魔(ぼんのうま)」「死魔(しま)」「天子魔(てんしま)」の四つをいいます。
「陰魔」とは、「陰」(肉体や心の働き)の活動が不調になって、成仏へ向かおうとする命を破ることをいいます。例えば、正法を信ずる者を病気にさせる働きなどです。
二番目の「煩悩魔」は、自身の煩悩によって、信心に励む心を破壊することをいいます。
次の「死魔」とは、文字通り事故や病気などによって生命を失わせることによって修行を妨げようとする魔です。また、同志の死によって信心に疑いを生じさせることも死魔の働きといえます。
最後の「天子魔」とは、第六天の魔王によって起こされるものです。第六天の魔王は、もっとも本源的な魔で、例えば権力者などの身に入って、ありとあらゆる力をもって仏道修行に励む人を迫害すると説かれています。
日蓮大聖人は、仏道修行と三障四魔の関係について、「この妙法を語っていけば、必ず魔があらわれる。魔が競い起こらなければ、正法であると知ることはできない」(御書1087ページ、趣意)と仰せです。
さらに、中国の天台大師が説いた『摩訶止観』の「修行が進み、仏法の理解が深まってくると、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。これに随ってはならない。恐れてもならない。これに随ったなら三障四魔は人を悪道に向かわせる。これを恐れたなら仏道修行を妨げられる」(趣意)との一節を引かれ、「この釈の文は、日蓮の身に当てはまるだけではなく、わが門流の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたっての信心の糧とすべきである」(御書1087ページ、趣意)と、障魔に紛動されることなく、強盛な信心を貫くよう教えられています。
このように、私たちの仏道修行の途上には、さまざまな障害や苦難が競い起こってきますが、注意しなければいけないことは、煩悩や、夫や妻、子、父母、あるいは病気や死が、初めから障魔であるというのではなく、これらに引きずられる修行者の弱い生命にとって「三障四魔」とあらわれる、ということです。
信心を妨げようとする障りや魔を打ち破るものは、どこまでも、何事にも揺り動かされない強い信心そのものなのです。
大聖人は、「海の潮の干満と、月が出た後と出る前、夏と秋と冬と春の境目には、必ずそれまでと異なることがある。私たち凡夫が仏になる時も同じである。その時には、必ず三障四魔という障りがあらわれる。これがあらわれた時に、賢者は喜び、逆に愚者はひるんで退いてしまう」(御書1091ページ、趣意)と仰せです。
障魔があらわれた時こそが、宿命転換のチャンスであり、一生成仏を遂げられるかどうかの分岐点です。この時にこそ、御本尊根本に、難に負けずに、いよいよ強盛な信心を奮い起こしていくことが大切です。「賢者は喜び」の信心を確立し、難を乗り越え、何ものにも崩れない幸福境涯を築いていきましょう。
末法に、法華経を弘める者には、必ず迫害がある――そう法華経には説かれています。日蓮大聖人の御生涯は、まさに迫害による難の連続でした。
大聖人は御自身が受けられた難について、「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(御書200ページ)と言われています。四度の大きな難とは、(1)松葉ケ谷の法難、(2)伊豆流罪、(3)小松原の法難、(4)竜の口の法難・佐渡流罪の四つです。
大聖人は二度にわたる流罪をはじめ、権力の迫害によって首を斬られるような事態になったことや、武装襲撃など、命に及ぶ数々の難を受けられました。また、あらゆる階層の人々から憎まれ、悪口されました。
法華経には、末法の法華経の行者が「刀杖瓦石」(刀や杖で打たれ、瓦や石を投げつけられる)、「数数見擯出」(権力によって何度も追放される)、「悪口罵詈」(悪口を言われ、罵られる)などの難を受けると説かれています。
大聖人は「開目抄」で、御自身が受けられた大難を挙げながら「ただ日蓮一人がこれらを身で読んだのである」(御書203ページ、趣意)と仰せです。大聖人の遭われた難は、まさに、これら法華経の文と一致し、大聖人が身をもって法華経を読まれたこと(法華経の身読)が明らかになるのです。
そうした法華経の身読によって、大聖人が末法の御本仏であることが、事実と経文の一致をもって客観的に証明されました。しかし、大聖人が大難を受けられたことの意義は、法華経を身読したということだけにとどまりません。
大聖人は、法華経に説かれている通りに、数々の大難を受け、そのすべてに耐え抜き、民衆救済の振る舞いに徹し抜かれた勝利の姿をもって、一人の人間が、生命に本来そなわる仏界の偉大な力を涌現できることを、証明されたのです。
凡夫(ふつうの人間)がそのまま仏になる――これこそが、法華経の核心であり、魂です。大聖人は大難の連続のなかで、この法華経の魂を身をもって示されたのです。