『新・人間革命』要旨11巻~15巻
第11巻 (「暁光」「開墾」「常勝」「躍進」の章)
【暁光】
1966(昭和41)年3月、山本伸一は5年半ぶりに南米ブラジルを訪問。
しかし、誤ったマスコミ情報等から、学会を危険視する空気が強く、文化祭や会員の大会も警察の監視下の開催となった。
伸一は、圧迫に敢然と挑み、周囲の偏見を打ち破る連続闘争を開始。
そして18年後に再訪を果たすまでの、ブラジル同志が社会の信頼を勝ち得ていく奮闘が描かれていく。
【開墾】
伸一は、次の訪問地ペルーへ。首都リマでは、少人数の指導に徹するとともに、南米解放の英雄サン・マルティンの生涯に思いを馳せ、指導者の在り方を思索する。
また、同行幹部は手分けして、アルゼンチンやパラグアイ、ボリビア、ドミニカなど南米各国を訪問。そこにも、日系人移住者を中心として、過酷な環境下で、懸命に広布の開墾作業に汗する、尊き同志たちがいた。
【常勝】
伸一は、「第7の鐘」をめざし、大前進の指揮を執り続ける。
9月18日。伸一を迎えた関西の友は、雨のなか、甲子園球場で関西文化祭を決行。苦難の雨を栄光の雨に変えた祭典は、新しき「常勝関西」の金字塔となった。
このころ伸一は、深刻化したベトナム戦争に心を痛め、仏法者として、11月の青年部総会で、和平提言を行うなど、平和への努力を続けた。
【躍進】
「黎明の年」から昭和42年「躍進の年」へ。
1月、公明党は初挑戦の衆院選を勝利し、衆議院第4党に躍進。人間性尊重の中道政治実現へ、本格的な戦いが始まる。
4月下旬、伸一は新潟を訪れる。そこで9年前の佐渡訪問を回想。その折、彼は、死罪・流罪の大難を覚悟で、民衆救済のために妙法を残された日蓮大聖人の御生涯を偲び、いかなる迫害にも負けず、前進しようと誓ったのであった。
第12巻 (「新緑」「愛郷」「天舞」「栄光」の章)
【新緑】
1967年(昭和42年)5月、会長就任7周年の本部総会を終えた山本伸一は、アメリカ、ヨーロッパ各国歴訪の旅に出発した。
アメリカでは、未来の大発展の布陣として、総合本部を発足。フランスでは新緑のパリ会館の入仏式に出席した。
訪問した各地で、新しい青年たちが喜々として活動に励む姿があった。ニューヨークではダンサーなど、芸術家を志す青年が台頭。パリでは女子部の活躍が目覚ましかった。
伸一は、イタリア、スイス、オランダでも、寸暇をさいて青年と会い、全力で励まし、広布の若芽の育成にあたった。
【愛郷】
帰国後、伸一は、国内各地を激励に回り、同年6月には、長野県の松代へ走った。
松代の同志は、2年前に始まった群発地震のなか、この地を寂光土にと決然と弘教に立つ。伸一は同志に、地震に負けず、模範の国土、組織を築こうと、渾身の励ましを続ける。
8月には岐阜・高山市に。江戸時代、悪政に苦しんだ飛騨の地から、幸福の花園をと語る伸一。郷土愛に燃えた同志の献身の行動は、地域の発展にも大きく貢献していった。
【天舞】
9月、創価文化会館の落成入仏式を終えた伸一は、四国・九州指導へ。
10月15日には、東京文化祭が国立競技場で開催され、伸一が見守るなか、出演者6万2千人の民衆絵巻は大成功を飾る。その偉業の陰には、人文字の下絵や各演目の振り付け等に献身する人々の支えがあった。また出演者の一人一人に、自己の壁に挑み、限界を打ち破る、幾多の勝利のドラマがあったのである。
同月下旬、「ヨーロッパ統合の父」クーデンホーフ・カレルギー伯爵が伸一を訪問。世界平和の実現へ、仏教、そして学会に期待を寄せる伯爵と伸一は深く共鳴し合った。後年、2人の対話は、対談集『文明・西と東』に結実する。
【栄光】
1968年(昭和43年)の「栄光の年」を伸一の詩「栄光の門出に」で出発した学会は、広布への歩みを加速する。
4月8日、東京・小平の地で創価高校・中学の第1回入学式が行われた。牧口初代会長が弟子に託した創価教育の具体化であり、伸一が会長就任の直前、開校の準備に着手して以来の夢の実現だった。
伸一は創価学園に幾度も足を運び、生徒一人ひとりを我が子のごとく激励。彼の慈愛に包まれ、生徒たちは大きく成長していく。
創価学園を“原点”に、創価教育は大学、小学校、幼稚園へと展開。卒業生は、全世界を舞台に社会貢献の実証を示している。
第13巻 (「金の橋」「北斗」「光城」「楽土」の章)
【金の橋】
1968年(昭和43年)、大学会の結成など学生部の育成に力を注ぐ山本伸一は、9月8日に行われる第11回学生部総会の席上、「日中問題」について重大な発言をする決意を固めていた。
当時、中国は国連に代表権を持たず、アメリカも日本も敵視政策をとっていた。そのなかで日中国交正常化を訴えることは、命の危険も覚悟せざるをえない状況であった。
だが、伸一は、“文化の恩人”である中国との友好なしに、アジアの安定も、世界平和もないという信念から、敢然と「日中国交正常化提言」を世に問う。
それは予想通り反発を呼ぶが、松村謙三をはじめ日中友好の先達は高く評価し、周恩来総理ら中国指導部も、この提言に鋭く注目する。復交を求める良識の声は高まり、伸一の創立した公明党がやがて重要な橋渡し役となり、提言から4年後(72年9月)、国交正常化に結実していく。
【北斗】
1968年(昭和43年)9月、伸一は、北海道の旭川へ、そして日本最北端の地・稚内へ飛んだ。
この稚内で、伸一は、「自信をもて」と呼びかけ、「稚内が日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」等と、最大の期待を寄せた。それは、厳しい条件で戦う学会員が、偉大な広布の勝利の実証を示せば、全同志の希望になるからであった。
彼は、北海道よ、北斗七星のごとく、広布の永遠なる希望の指標たれと祈ったのである。
この9月の本部幹部会で、学会の縮図である座談会の充実を呼びかけた伸一は、自ら先頭に立って、最前線の座談会に飛び込む。その波動は全国に広がり、運営にあたる幹部をはじめ、皆の決意と意識が一新。民衆の蘇生の広場である「座談会革命」が進んでいった。
【光城】
1968年(昭和43年)11月、伸一は2度目となる、奄美の訪問を実現。
奄美では、この数年前から、広布の進展を妨害する魔の働きが激しくなっていった。ことに、ある村では、躍進する公明党への危機感から、その支援団体である学会への敵視が強まり、村をあげての学会員への村八分が行われるに至った。迫害はエスカレートし、御本尊の没収や仕事上の圧迫、学会撲滅を訴えるデモにまで発展した。
この試練を、奄美の同志は歯を食いしばって耐えた。いな、御書通りの苦難であり、“変毒為薬を”との伸一の指導を受けて、決然と戦っていったのである。
伸一は、5年ぶりの奄美で、その尊き同志たちを抱きかかえるように励まし、奄美を日本の広宣流布の理想郷にと呼びかけるのであった。
今、奄美は、広布の先駆を切る希望の「光城」として、地域広布の勝利の旗がひるがえっている。
【楽土】
1969年(同44年)の新年、伸一は、全同志に詩「建設の譜」を贈った。
1972年(同47年)の正本堂建設に符節を合わせ、自身の胸中に不滅の信心を築き上げるとともに、万代にわたる広宣流布の堅固な基盤を完成させることを訴えた。
2月15日、伸一は、沖縄の天地に立った。米軍基地に苦しむ沖縄に楽土を建設するために、各人が自らの宿命転換を図り、国土の宿命転換をも成し遂げようと訴える伸一。
その彼の指導のごとく、駐留米軍のアメリカ人の学会員の面倒をみるメンバーや、わが子を不慮の事故で亡くしたメンバーの、宿命転換のドラマがつづられていく。
そして、伸一と名護・国頭の同志との劇的な出会いなどの魂の交流が、沖縄に楽土建設への不屈の闘志を燃え上がらせていった。
第14巻 (「智勇」「使命」「烈風」「大河」の章)
【智勇】
1969年(昭和44年)5月3日の本部総会の席上、山本伸一は750万世帯の指標を示すとともに、創価大学に、「人間教育の最高学府たれ」等の三つのモットーを示した。
また、過激化していく学生運動について「第三の道」を開いていくよう学生部員に提案する。
伸一は、月刊誌に次々と筆を執り、暴力革命では真の社会改革はできないことを述べ、人間革命を根本とした無血革命こそ、社会の矛盾を乗り越える道であると強調。また、三権分立に教育権を加えた「四権分立」構想を提唱していく。
未来ある学生を守りたいと願う伸一は、夏季講習会の折、男子学生部が大学の自治を奪う「大学立法」に反対する抗議集会を行うと聞けば、自らデモの先頭にも立った。
その姿に、多くの学生部員が奮起。やがて彼らは、学生運動の「第三の道」を目指し、新学生同盟(新学同)を結成するのである。これは後の青年部の難民救援運動など、学会の平和運動の先駆的試みとなった。
【使命】
この年は、広布の緑野に、多彩な使命の花が、新たに咲き始めた年であった。
まず、女子部の看護婦(現・看護師)メンバーによる白樺グループが結成。「生命の世紀」へ飛翔を開始した。さらに鼓笛隊は、アメリカでのパレードに参加し、数々の感動のドラマが生まれていった。
“新しい時代を担う人材を育成しよう”——伸一は、同志が使命に乱舞する時代をつくるために必死であった。
夏季講習会では、37カ国・地域から集った海外の友に、雨中、濡れながら渾身の激励を重ねた。そして、文芸部の結成式に臨んでは、文は生命であり、文は魂であり、また文は境涯であると語り、新しきルネサンス(文芸復興)の担い手が、陸続と育つことを願うのであった。
【烈風】
間断なき伸一の戦いは過酷を極め、体力も限界に達していた。
師走。この年、7度目の関西訪問中、伸一は急性肺炎による高熱と咳に襲われる。だが、医師も危ぶむなか、和歌山に入り、病を押して学会歌の指揮をとる。その生命を賭しての激闘は、全同志を鼓舞し、偉大な民衆勝利の歴史を開く。
当時、学会は荒れ狂う烈風にさらされていた。折から浮上した“言論・出版問題”に事寄せ、ついには、国会まで巻き込んで学会と公明党への攻撃が沸騰するのである。
その背景には、大躍進を続ける学会、そして公明党に危機感を抱いた、既成の宗教勢力と政治勢力が結託し、迫害の構図が作られていたのである。
だが同志は烈風をはね返して、70年(同45年)1月、目標より早く、会員750万世帯を突破する。伸一もまた、体調の悪いなか、同志を励ますために、小説『人間革命』第6巻の執筆を再開する。
第三代会長就任10周年となる5月3日が近づきつつあった。伸一は、広宣流布の流れが渓流から大河へと変わる今、新たな展望を示そうと決意する。
【大河】
1970年(同45年)5月3日の本部総会で、伸一は、広宣流布とは“流れそれ自体”であり、永遠の闘争であると強調。そして、広宣流布は“妙法の大地に展開する大文化運動”と位置づけた。
そして、学会の組織形態について、これまでのタテ線——紹介者と新入会者のつながりで構成された組織から、ヨコ線——地域を基盤としたブロック組織へと移行することを提唱。それは、地域のなかに人間の連帯を作り上げるためであった。
伸一の眼は21世紀に注がれていた。ゆえに、未来の主役となる少年少女の育成に全力を傾けた。その翼の下から、人材グループ「未来会」の若人が力強く羽ばたくことになる。
同年9月、聖教新聞社の新社屋が落成。伸一は、日々、惰性を打ち破ることが、良い新聞をつくる最大の要件であると指導。1カ月半後の全国通信員大会では、“通信員と配達員こそ新聞の生命線”と訴え、“大河の時代”へ、着々と布石を重ねていったのである。
第15巻 (「蘇生」「創価大学」「開花」の章)
【蘇生】
山本伸一は、1970年(昭和45年)5月の本部総会で、「公害問題」に言及。
広宣流布とは、仏法の人間主義を根底とした社会の建設だと考える彼の、やむにやまれぬ発言であった。イタイイタイ病や水俣病等が深刻化するなか、彼は反公害闘争のペンをとり、仏法の“人間と環境”の共生の哲学を通して公害根絶を訴え、大きな反響を広げていく。
当時、水俣でも妙法の同志が自他共の宿命転換を願って、懸命に戦っていた。伸一は74年(同49年)1月、遂に水俣の友に会う。皆が人々の希望となり、郷土の蘇生の歴史をと、全精魂を注いで励ますのであった。
“妙法の大地に大文化運動を”と、「第三文明華展」などが多彩に行われた70年。伸一もまた、精神闘争即芸術の結晶として、「青年の譜」等の詩を次々に発表する。
一方、作家・三島由紀夫の割腹死事件を巡って学生部員と語り、広布と民衆のために命を捧げる人生たれと念願した。
翌71年(同46年)2月には、伸一は北海道に飛び、初の“雪の文化祭”に出席。新しき庶民文化の祭典を実現した友を、心から讃えた。
【創価大学】
1971(昭和46)年4月、東京・八王子に創価大学が開学。牧口・戸田両会長の構想を受け継いだ伸一が、「人類の平和を守る要塞たれ」等の理念を掲げ、全生命を注いで建設した教育の城である。
創立者の伸一は大学の自主性を尊重し、開学式にも入学式にも出席しなかったが、彼を慕う一期生たちは、何の伝統もないなか、次々にクラブを設立するなど、懸命に、奮闘していった。
当初、教員の一部に、伸一の来学を歓迎しない空気があった。しかし、ならば我々が創立者を呼ぼうと、学生が大学祭を開催し、遂に伸一の訪問が実現する。これ以後、伸一が大学行事に出席し、直接、学生と交流する流れがつくられる。
2年目の秋、理事会がほぼ決定した学費改定案を学生に諮ると、これは創立者が示した「学生参加の原則」を壊すものだと、学生たちは白紙撤回を要請。その真剣さに、理事会も同意する。その後、学生たちは協議を重ね、自主的に学費値上げを決議したのである。
こうしたなか、伸一は「全員が創立者の精神で!」と語る。彼の期待を真剣に受け止めた学生たちは、理想的な学園共同体の実現へ、建設の労苦を背負っていく。
第3回入学式には、伸一が初めて出席し、“人類のため、無名の庶民の幸福のため”という創大開学の意義を講演。また、滝山祭の盆踊り大会に加わり、血マメを作りながら太鼓を叩くなど、学生のなかへ飛び込んで励ます伸一の姿は、人間教育の模範であった。
大学の評価は卒業生で決まる。伸一は、大学に招待した各企業のトップ一人ひとりに自ら名刺を渡し、「学生を宜しく」とあいさつするなど、全力で学生を応援した。
4春秋を経て、遂に迎えた第1回卒業式。伸一は共に大学建設に戦った一期生に、生涯、創大で結んだ魂の絆を忘れるなと激励するのであった。
【開花】
「大河の時代」を進む学会は、いよいよ、その仏法の哲理を現実社会のうえに開花させる時を迎えていた。伸一は、1971(昭和46)年6月、牧口初代会長の生誕100年に際し、この大河を開いた創価の源流の先師への感謝の思いを募らせる。
2日後には、北海道へ飛び、激励行の合間に月の写真を撮影。彼の写真は、やがて「自然との対話」写真展に発展し、新たな民衆文化の波を起こすことになる。
伸一は、学会の発展が、そのまま地域と社会の繁栄につながると考え、地域との交流を図る取り組みを思索していた。その構想を具体化した、「鎌倉祭り」と、「三崎カーニバル」は、地域の興隆を願う学会員の真心が輝き、社会に開かれた信頼と友情の舞台となったのである。
同年の夏季講習会の最中、大型の台風の影響を受け、近くでキャンプを行っていたボーイスカウトの世界大会の運営本部から、避難させてほしいとの知らせが入った。伸一の陣頭指揮で万全の支援を推進。垣根のない人間と人間の交流がなされた。慈悲の光による社会貢献の時代が大きく開花していた。