『新・人間革命』要旨21巻~25巻
第21巻 (「SGI」「人間外交」「共鳴音」「宝冠」の章)
【SGI】
1975年(昭和50)年1月26日。
世界51カ国・地域のメンバーの代表158人がグアムに集い、第1回「世界平和会議」が開催された。グアムは、第2次世界大戦で日米の攻防戦が行われた島。会場に置かれた署名簿の国籍欄に「世界」と記した山本伸一の胸には、恩師の「地球民族主義」との言葉が響いていた。
会議では、国際平和団体・IBL(国際仏教者連盟)が誕生。そして、各国メンバーの団体からなる、創価の精神を根幹とした国際的機構としてSGI(創価学会インタナショナル)が結成され、全参加者の総意で伸一がSGI会長に就任した。
また、生命の尊厳に目覚めた民衆の連帯を築き、恒久平和の創出を誓った「平和宣言」が採択。伸一は「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください」と呼びかけた。
会場には、伸一が励まし、はぐくんできた各国のリーダーが集っていたが、韓国メンバーの姿はなかった。だが、韓国SGIは幾多の試練を乗り越え、後に大発展を遂げることになる。
【人間外交】
1月28日に帰国した伸一は、ノーベル賞を受賞した佐藤栄作元総理をはじめ、各界のリーダーらと精力的に対話を重ねていく。
また、訪ソの印象をまとめた『私のソビエト紀行』の発刊や、新聞連載「私の履歴書」を開始。作家の井上靖や福田赳夫副総理とも相次ぎ会談。
さらに、日中国交正常化後、中国から初の正式な留学生を迎える創価大学の入寮式に駆けつけ、激励する。
そして4月14日、3度目の訪中へ。北京大学などを訪問。トウ小平副総理と再会した伸一は、難局を迎えていた日中平和友好条約の締結へ、中国側の見解をあらためて確認する。
カンボジアの首都プノンペンが民族統一戦線によって陥落した翌18日、北京でシアヌーク殿下と会見。平和への全精魂を注ぐ人間外交が展開されていく。
この夜、列車で武漢へ。創大1期生が縁となり交流する、呉月娥が教壇に立つ武漢大学で図書贈呈式を行う。
20日、空路、上海へ。復旦大学を訪れた伸一は、創大に来た6人の留学生を見守り、日中友好への行動を続けていくことを誓う。
【共鳴音】
5月3日、会長就任15周年の式典で、伸一の提案による「創価功労賞」等の授賞や会場提供者への表彰が行われる。その後、男子部、学生部の代表の集いに出席。広布の未来を託し、そのメンバーに自身の名を取って「伸一会」と命名する。
13日には仏・英・ソ連の訪問に出発する。フランスでは、パリ大学ソルボンヌ校の総長や大統領府事務局長、ローマクラブの創立者であるアウレリオ・ペッチェイ博士と会談。欧州最高会議や友好祭などに出席する一方、陰で活躍するメンバーのグループ結成や中心者の家庭訪問など、渾身の励ましを続ける。
18日にロンドンへ移動し、イギリス代表者会議に出席。翌日、トインビー博士に、伸一との対談集と創大名誉教授称号の証書を贈るために、王立国際問題研究所を訪ねる。
博士は病気療養中のため秘書に託し、再びフランスへ。午後には作家のアンドレ・マルロー宅を訪問し会談。翌日も美術史家ルネ・ユイグとの会談など、伸一は“対話の旋風”を巻き起こし、魂の共鳴音を広げていく。
【宝冠】
フランスでの予定を終えた5月22日、伸一は第2次訪ソへ。一行には、重層的な日ソ交流を推進するため、婦人部や青年部、創価大学、民音、富士美術館などの代表も加わった。
翌日から分刻みのスケジュール。対文連、文化省の訪問に続き、ショーロホフ生誕記念レセプションでスピーチ。
連邦会議議長、モスクワ市長、海運相らとも会見。婦人・女子部の代表とソ連婦人委員会を訪れ、世界初の女性宇宙飛行士である同委員会のテレシコワ議長らと会談を行う。
27日、モスクワ大学の総意で、伸一に世界の知性の宝冠である「名誉博士号」が贈られた。続いて伸一は、「東西文化交流の新しい道」と題して記念講演。人間の心と心を結ぶ「精神のシルクロード」を、との訴えに、聴衆の歓声と拍手は鳴りやまなかった。
翌日、コスイギン首相と再会。中国への警戒を強くする首相に、訪中で周恩来総理、トウ小平副総理と会談したことを伝える。険悪化する中ソ関係を改善するため、自身が両者の懸け橋になろうと覚悟していたのである。
第22巻 (「新世紀」「潮流」「波濤」「命宝」の章)
【新世紀】
1975年(昭和50年)6月、山本伸一は新世紀への飛翔のために、東京各区をはじめ、各地の首脳幹部との協議会に力を注いでいた。
大田区から始まった協議会では、新会館の建設や記念行事の開催が決まるなど、新しい前進の目標が次々と打ち出され、新たな希望が広がる。
戸田第2代会長の出獄30周年の7月3日、記念の集会で伸一は、戸田が提唱した地球民族主義の平和構想実現への決意を力強く語る。そして、恩師の偉業を永遠に顕彰する記念碑を、戸田の故郷・厚田村に建設することを提案する。
青年部は結成記念日を控え、聖教新聞で紙上座談会「青年が語る戸田城聖観」を連載。師と共に新しい時代を開く青年の熱意があふれる紙面となった。
このころ、伸一は、各界の指導者や識者との対話に全力を傾けていた。
7月12日には、日本共産党委員長の宮本顕治と会談。二人の語らいは毎日新聞に連載され、その間に“創共協定”が発表される。
一方、文学界の巨匠・井上靖との手紙による語らいは、往復書簡『四季の雁書』として月刊誌「潮」7月号から連載が開始。生死や老いの問題からカントやトルストイなど、幅広い対談は12回にわたって続けられ、1977年(昭和52年)に単行本として結実。
また、この連載が始まったころ、“経営の神様”といわれる松下幸之助との往復書簡集の発刊準備も進んでいた。出会いを重ねる一方、書面を通しての語らいを進めてきたのだ。人間の生き方から、日本、世界の進路など、テーマは多岐にわたり、この年の10月、『人生問答』上・下巻として発刊に至る。
【潮流】
7月22日、伸一は、第12回全米総会を中心とした「ブルー・ハワイ・コンベンション」に出席するため、一路、ホノルルへ。
この総会は、翌年がアメリカの建国200年に当たることから、その前年祭記念行事として開催されることになり、大統領からもメッセージが寄せられていた。3日間にわたる大会は、25日、アメリカを代表する一流の芸術家が出演するナイトショーからスタート。翌26日、メンバーが難問を克服して造り上げた人工の浮島で行われた全米総会には伸一と共にアリヨシ州知事が出席し、あいさつ。SGI(創価学会インタナショナル)が多様性を重んじ、民族、文化の相違を克服して、友愛と人間愛を信条としていることを賞讃した。
登壇した伸一は、民衆と民衆の友愛と調和があってこそ、真の平和が築かれると述べ、異民族同士の共存を可能にしてきたハワイの「アロハの精神」に言及。それは仏法の「慈悲」「寛容」に通じるものであることを訴えた。
この夜、行われたパレードには、伸一との約束を果たし、喜々として行進するニカラグアのメンバーの姿も。大会の最終日には、アメリカの建国の歴史と精神をミュージカルでうたい上げるなど、絢爛たる舞台が続いた。
行事の合間をぬって伸一は、来賓との会見をはじめ、広島などの交流団やブラジル、ペルーの代表を宿舎に招いて激励を重ねる。29日、コンベンションを陰で支えたスタッフらに、伸一は自らバーベキューの肉を焼いてもてなすなど、労をねぎらい、励ましていく。
世界への第一歩をハワイにしるしてから15年——。今、再びこの地から、平和の新しい潮流が起ころうとしていた。
【波濤】
未来を開くために何よりも必要なのは新しい人材である。
伸一は、ハワイから帰国すると、創価大学での夏季講習会で陣頭指揮を執る。
8月3日の「五年会」の総会、翌日の高等部総会での渾身の指導をはじめ、連日のように各方面の幹部や各部の代表と懇談を重ね、さらに、未来部員を見送るなど寸暇を惜しんで激励を続けた。
東京男子部の講習会では、外国航路で働く船員の集いである「波濤会」のメンバーと記念撮影する。
「波濤会」からは、大しけで船首を折られた貨物船の乗組員全員の救助に成功し、総理大臣表彰を受けた「だんぴあ丸」の船長など、多くの人材が育つ。また、不況にあえぐ海運業界を勇気づけようと企画した「波濤会」の写真展は海外10カ国へ広がり、共感の波を広げていく。
伸一は、若い女性の育成にも全力を注ぎ、9月9日には、女子部学生局の幹部会に出席。御書を通して指導したあと、夜の会合の終了時間を早め、午後8時半とする「8・30運動」を提案。
28日には、女子部の人材育成グループ「青春会」の結成式へ。彼は21世紀を託す思いで魂を打ち込んでいく。
新時代の女性リーダーを育成するこの会は、次々と各方面で結成されるが、伸一は折あるごとにメンバーを励まし、見守り続ける。
やがて総合婦人部長、婦人部長をはじめ、広布の枢要な立場で活躍するメンバーや社会で重責を担う人材が育っていく。
【命宝】
この世で最も尊厳な宝は、生命である。
9月15日、伸一は、その生命を守る、現代の四条金吾ともいうべきドクター部の総会に初めて出席する。「健康不安の時代」と言われている現代にあっては、心身両面にわたる健康に着目する必要があると指摘し、精神的な健康の確立が身体上の健康増進の大きな力となることを訴える。この日は、後に「ドクター部の日」となる。
11月7日夕刻、本部総会に出席するため広島入りした伸一は、到着早々、落成間もない広島文化会館の館内をくまなく視察。夜には開館式に出席して指導。8日には、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花し、祈りを捧げる。
9日、被爆30年を迎えた広島の地で本部総会を開催。伸一は、この地上から一切の核兵器が絶滅する日まで、最大の努力を傾けることを宣言し、広島での国際平和会議の開催など、全廃への具体的な取り組みを提案する。さらに、日本が目指すべき今後の進路や、創価学会の社会的役割などに言及。講演は1時間20分にも及んだ。
終了後、来賓のレセプションを終えた伸一は、広島未来会第2期の結成式へ。少年少女合唱団も招き、交流のひとときをもつ。10日には、海外メンバーの歓迎フェスティバル、原爆犠牲者の追善勤行会などが続くなか、広島会館へ。会館前の民家の主にも丁重にあいさつし、対話を交わす。
11日、予定を変更し、呉会館を初訪問。駆け付けたメンバーと勤行し、指導を重ね、その合間には、控室でも激励を続ける。また、広島文化会館に戻る途次、人待ち顔でたたずむ学会員を見つけては、励ましを送る。
第23巻 (「未来」「学光」「勇気」「敢闘」の章)
【未来】
1976年(昭和51年)4月16日、札幌創価幼稚園が開園。
創立者・山本伸一によって、創価一貫教育最初の「教育の門」が完成した。入園式に出席した伸一は、園児を自ら出迎え、真心こもる触れ合いを重ねる。「皆のために何でもしたい」という伸一の心情と行動を目の当たりにした教職員は、創立者と同じ思いで子どもを育てようと誓う。
伸一は、折々に幼稚園を訪れ、園児と心の絆を結んだ。伸一と教職員の情熱に育まれ、園児は伸び伸びと成長し、未来へ羽ばたいていく。創価の幼稚園は、札幌に続き、香港、ブラジルなど海外5カ国・地域に開園。各国・各地域で創価の人間教育は、高い評価を得ていくことになる。
【学光】
創価大学に通信教育部が開設され、5月16日の開学式に第1期生が集う。通信教育部は、伸一が、創価大学の設立を構想した当初からの念願であり、民衆教育の眼目であった。伸一は、通信教育部の機関誌を「学光」と命名。〝学の光で人生、社会を照らしゆく〟との指針が定まった。開学式に伸一は、万感の思いを込め、テープに録音した長文のメッセージを贈る。
夏期スクーリングにも伸一が訪れ、懇談や記念撮影など激励が続く。その心に応えようと通教生たちは苦闘を重ねながら勉学に励み、卒業の栄冠を勝ち取っていく。伸一は、通教生の催しである学光祭への出席など、渾身の励ましを続けた。やがて、卒業生からは医学・工学博士、公認会計士、教員などとして社会に貢献する人材も数多く育っていく。
【勇気】
創大通教の開学式の日の夜、学生部の2部(夜間部)に学ぶ男子学生による「勤労学生主張大会」が盛大に開催される。前年に、伸一の提案で2部学生の集い「飛翔会」が結成され、メンバーは伸一と同じ青春の道を歩む誇りに燃え、先駆の学生部のなかでも一段と輝きを放っていた。
「7・17」——それは、事実無根の公職選挙法違反の容疑で、大阪府警に不当逮捕された伸一が、釈放された日である。その20年目を記念し、伸一は、新しい学会歌の制作に取り組む。多忙を極めるなか、歌詞を何度も推敲し、曲作りに励んだ。18日夜、師弟の共戦譜、生命の讃歌ともいうべき「人間革命の歌」が完成。翌日の夜には、全国各地の会合で声高らかに歌われ、さらに世界各地の同志へと広がっていく。
【敢闘】
7月23日、伸一は名古屋で女子部の人材育成グループ「青春会」を激励し、三重県の中部第一総合研修所へ。歴代会長の精神を学び、継承するため遺品等を展示した記念館をはじめ研修所内を視察。26日、中部学生部の代表で「学生部厚田会」を結成。8月6日には鹿児島県の九州総合研修所に飛び、12日に東京に戻り、3日間にわたる茨城指導へ。
19日から再び九州総合研修所に向かい、人材育成グループ「鳳雛会」「鳳雛グループ」の大会や本部幹部会に相次ぎ出席。喜界島の草創期を築いた婦人にも最大の励ましを送る。伸一の入信記念日であり、恩師との思い出深き24日には、会員宅を訪問。来る日も、来る日も、力を尽くし、同志を励ます。その地道な労作業にこそ、広宣流布を決する「敢闘」がある。
第24巻 (「母の詩」「厳護」「人間教育」「灯台」の章)
【母の詩】
1976年(昭和51年)の8月末、山本伸一とフランスの作家アンドレ・マルローとの対談集が発刊された。
また、同月半ばから10月上旬にかけて開催された方面・県の文化祭は、「人間革命の歌」とともに、人間讃歌の絵巻を繰り広げた。
9月5日、東京文化祭に出席した伸一は、彼の詩に曲をつけた「母」の歌の調べに耳を傾けながら、世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げるとともに、病床にある彼の母・幸を思い、心で唱題した。2カ月余り前、危篤状態に陥り、奇跡的に一命を取り留めた母は、伸一に語った。「皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」と。その母の心を体して、この日も、崩れた5段円塔に再挑戦した男子部員らに励ましを贈るなど、奮闘し抜いてから母のいる実家へ。苦労に苦労を重ねてきたが、「日本一の幸せ者」と言い切った母。翌朝、母は、安らかに霊山へ旅立つ。
9月14日、伸一は静岡県の東海研修所に先師・牧口常三郎を顕彰する牧口園を訪問。さらに、10月25日には恩師・戸田城聖の故郷・厚田村に建設される戸田記念墓地公園の着工式に出席。11月には、北陸を訪問し、石川文化会館に戸田記念室を、富山文化会館に牧口記念室の設置を提案。関西牧口記念館の開館式にも臨み、歴代会長の遺徳を宣揚し、その精神を伝えるために全力を尽くす。
【厳護】
1976(昭和51)年晩秋の夜、伸一は学会本部周辺を巡回していた「牙城会」の青年に出会うと、一緒に建物の隅々まで点検しながら、絶対無事故を期す基本を徹底し、学会厳護の精神を訴える。
11月、登山会の輸送を担ってきた「輸送班」を発展的に解消し、諸行事の運営・整理などを担う「創価班」が発足すると、翌年1月6日に「創価班総会」の開催を提案した。
77年(同52年)「教学の年」が明ける。新年勤行会終了後、伸一は次々と記念のカメラに納まり、「白蓮グループ」のメンバーも激励。彼女たちに、民衆奉仕の精神と「冥の照覧」への確信を語り、励ます。
一方、聖教新聞の元日付から、伸一の「諸法実相抄」講義が始まり、「大白蓮華」の1月号から「百六箇抄」講義の連載も開始されるなど、仏法研鑽の息吹が学会に満ちあふれる。伸一は、1月15日に大阪で開催された教学部大会で、〝宗教のための人間〟から〝人間のための宗教〟への大転回点が仏教の発祥であったことなどを訴える。
【人間教育】
77年、学会は、広宣流布の主戦場である第一線組織の強化に取り組む。伸一は、各部大ブロック幹部の勤行会に出席し、仏法への大確信を打ち込んでいく。伸一に代わって勤行会を担当する最高幹部との懇談では、全同志の功徳と歓喜の実証こそが、組織強化の要点であることを訴える。
2月6日夕刻、創価学園生との懇談に続いて、第1回となる東京教育部の勤行集会に出席。創価の源流を継承する教育部が61年(同36年)に誕生して以来、伸一は、その育成に精力を注いできた。勇んで立ち上がった教育部員はそれぞれの場で人間教育に奮闘。実践報告大会の開催や体験談集を発刊していく。また、地域では教育相談室を開催し、社会貢献の大きな実績を挙げてきた。伸一の励ましによって、教育部は、新時代の大空に雄々しく飛翔し、全国津々浦々に、「平和の世紀」「生命の世紀」を開く人間教育の潮流を広げていく。
【灯台】
社会本部に、社会部、団地部、農村部(現在の農漁光部)、専門部の設置が発表されたのは、オイルショックの引き金となった1973(昭和48)年10月の第4次中東戦争の勃発直後であった。
いずれも、信心を根本に、社会、地域に貢献していくことを目指して設置されたものである。
1977(昭和52)年の2月2日、山本伸一は、社会部の勤行集会に出席し、皆が職場の勝利者となる要諦を語る。社会部員は自覚を一段と深め、職場の第一人者として光り輝いていく。
17日には、全国のメンバーが集って開催された第1回「農村・団地部勤行集会」へ。過疎化のなかで農業再生のために「農業講座」や「農村青年主張大会」などを開催する農村部へ、伸一は〝地域、学会の灯台たれ〟との指針を示す。
一方、団地部は、過密化した居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をつくるために献身していた。伸一は、団地部のメンバーには〝幸福への船長、機関長たれ〟との指針を贈る。一人一人が、蘇生の光を送る灯台となって、社会の航路を照らし出す——そこに、創価学会の使命がある。
第25巻 (「福光」「共戦」「薫風」「人材城」の章)
【福光】
1977年(昭和52年)3月11日、山本伸一は完成したばかりの福島文化会館を訪問。
幾度となく過酷な試練にさらされてきた東北の宿命転換を願い、激励行を開始する。出迎えた東北長、福島県長らに青年育成の在り方などを語り、夜には、福島文化会館の開館記念勤行会に臨む。8年前に示した「希望に燃えて前進する福島」「生活闘争に勝利の福島」「生命力豊かな信仰の福島」の3指針の意義を確認。
続けて行われた県・圏の代表との懇談会では、具体的な事例を通して、リーダーの姿勢や団結の要件等について述べ、さらに青年部には、信仰への絶対の確信をつかむよう念願した。
翌日、伸一は懇談会で、2人の婦人に懐かしそうに声を掛けた。2人はかつて、伸一が支部長代理をしていた文京支部の日本橋地区に所属していた。
1957年(昭和32年)7月、当初、福島を訪れる予定であった伸一が、大阪事件で不当逮捕される。福島の同志は、伸一の獄中闘争を思い、彼が打ち出した〝一班一〇(イチマル。10世帯の折伏)闘争〟に奔走。このメンバーが原動力となり、地区は全国模範の優秀地区に名を連ねたのである。
福島滞在2日目の12日、伸一は2回目の開館記念勤行会や代表幹部との懇談会に出席し、指導に全力を傾ける。翌13日には、東北6県の婦人部代表との懇談、代表幹部会に出席。
さらに「3・16」の意義を込めた福島県青年部記念集会では、「青年が、人びとの勇気の原動力となり、未来を照らす福光の光源となっていくなら、福島は盤石です」と期待を寄せる。
【共戦】
1977(昭和52)年3月19日付の聖教新聞で、「八葉蓮華」をデザイン化した創価学会の新しいシンボルマークを発表。
山本伸一は、全国各地に完成した新会館の開館記念勤行会に相次ぎ出席。5月17日には、本部幹部会を翌日に控えた九州平和会館に到着。これまで外部会場で行われてきた本部幹部会は、全国に誕生した会館や研修所で行うようになっていた。
九州平和会館での本部幹部会を終えた伸一は、19日、10年ぶりに山口へ。彼は、この訪問を「第二の山口開拓指導」と位置づけていた。夕方、山口文化会館で行われた懇談会では、「山口開拓指導」で共に戦った同志に、「人生の総仕上げ」をテーマに指導。①報恩感謝の思いで、命ある限り広宣流布に生き抜く②それぞれが幸福の実証を示す③広宣流布の後継者を育て残していくことが重要である、と訴えた。
懇談会終了後、伸一は、山口市内を視察。サビエル記念聖堂を眺め、フランシスコ・ザビエルの日本での布教活動に思いをはせる。そして、世界広布のために死身弘法の信念に立つ、真の信仰者の育成を誓う。
さらに伸一は、山口文化会館や徳山文化会館での記念勤行会にも出席し、防府会館も訪れ、一人一人の同志に不退の火をともしていった。
【薫風】
「九州が ありて二章の 船出かな」——1977(昭和52)年5月22日、北九州文化会館での句碑の除幕で、伸一は、〝先駆〟の九州の使命は最後まで常に〝先駆〟であり続けることにあると訴える。
青年の代表らと懇談会をもった彼は、かつて小樽問答や「3・16」の式典で司会を務めた経験を通して、司会の役割・要件をアドバイス。さらに、歯科医の青年たちを激励した。北九州では、記念勤行会などの諸行事にも出席したほか、小倉南区の個人会館を訪れ、感謝を述べ、和歌を贈る。
5月25日、佐賀を10年ぶりに訪問した伸一は、創大出身者が地元で活躍している様子を聞き、佐賀文化会館での懇談会に現役生、卒業生の代表を招き、〝皆が開拓者に!〟と望んだ。26日には佐賀文化会館の開館記念勤行会が行われ、婦人部に新リーダーが誕生。懇談会で伸一は、前任の県婦人部長に、後任の人が存分に力を発揮できるかどうかは前任者の責任であると指導。経済的な事情から大学進学を断念した県男子部長には、教養をつけること。副県長を兼任する県青年部長には、県長の自覚で一切の責任、苦労を担うとともに、陰に徹することを訴えた。
懇談会が終わると、婦人部員との約束を果たすために、彼女の夫が営む理髪店へ。誠実な伸一の姿を目の当たりにした夫は、やがて真剣に活動するようになり、未入会であった養女夫妻も信心を始める。伸一が行くところ、蘇生と歓喜のドラマが広がった。
【人材城】
5月27日、熊本文化会館に到着した伸一は、会館由来の碑文を県青年部長に読ませることから、青年への育成を開始する。
懇談では、新会館から新しい人材が陸続と育つことを念願。人材の根本要件は、広宣流布の師弟の道に生き抜く人であるとし、先輩幹部自らが実践をもって同志を触発していくことが大切であると述べた。
その後、女子職員と語り合い、幸福観、活動の在り方、年上の部員との関わり方など、若い女性リーダーの悩みに答え、未来の大成を願う。
翌28日、熊本文化会館の開館記念勤行会に続いて懇談会に出席。伸一は、彼が熊本への第一歩をしるした三角の同志が奮闘しているエピソードや、玉名の友が兄弟で力を合わせて父の借金を完済し宿命転換している様子、集中豪雨に遭った五木のメンバーが彼の伝言を胸に変毒為薬していった報告などを聞く。
伸一は、五木村に伝わる「五木の子守唄」から、子どもたちの幸福のために教育改革に立ち上がった初代会長・牧口常三郎を思い、断じて不幸をなくそうというのが創価教育の原点であり、学会の心であると訴える。さらに未入会の父をもつ医学生を励ます。また、懇談会の後も、代表幹部に対し、城の石垣を例に、多彩な人材の育成と異体同心の団結によって難攻不落の創価城ができると語った。
翌29日、伸一は、出発時刻ぎりぎりまで、熊本の同志への激励に、魂を注ぎ続ける。