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『人間革命』要旨7巻~12巻

第7巻 (「飛翔」「原点」「翼の下」「水滸の誓」「匆匆の間」の章)

1953(昭和28)年、学会は75万世帯の達成へ、年間5万世帯の折伏を掲げた。

そのために、まず抜本的な人事と、支部中心から地区中心への指導体制の移行が行われた。伸一も第1部隊長に就任し、さらに文京支部長代理となり、信心の団結をもって、弱体の支部を一変させていく。

学会前進の原動力となったのは、戸田の「方便品(ほうべんぽん)・寿量品(じゅりょうほん)」の講義であった。自らの原点たる獄中の悟達に基づき、日蓮仏法の精髄を会員に説いた。我が身が妙法なることを、生命の永遠を、仏法即生活を--その感動と確信が同志の弘教に拍車をかけたのである。

また戸田は、男子部に水滸会、女子部に華陽会(かようかい)という人材グループをつくり、次代の指導者の育成に生命を削っていく。なかでも水滸会は、伸一を中心に、師とともに宗教革命に生涯を捧げることを誓い合う。

11月には学会本部が信濃町に移転し、次の飛躍の基盤も整った。

第8巻 (「真実」「推進」「学徒」「明暗」「多事」の章)

破竹の勢いで邁進(まいしん)する学会には、幾千幾万の功徳(くどく)の体験が花咲いていった。

それは、暗い宿命に翻弄(ほんろう)され、泣き続けてきた無名の庶民が、経済苦・病気・家庭不和などの苦悩を克服し、偉大なる使命に目覚めゆく勝利の歴史であった。戸田は新本部の会長室で、その大切な一人一人を抱きかかえるように、渾身(こんしん)の個人指導を続ける。

1954(昭和29)年、伸一は青年部の参謀室長に就任し、“広布推進のスクリュー”としてフル回転を始める。その斬新な発想から、青年部1万人総登山や、文化祭の前身となる体育大会などが生まれていく。その頃、戸田は数名の東大生に法華経講義を始め、これが学生部の萌芽(ほうが)となる。水滸会への訓練も続き、東京・氷川で第1回野外研修が開催される。

折伏の拡大につれ、学会の存在はようやく社会の耳目を集め、他宗派やマスコミからの批判・中傷も高まっていく。

第9巻 (「発端」「小樽問答」「展開」「上げ潮」「実証」の章)

舞台は北海道・小樽。地元の学会の中心者である婦人たちが、日蓮宗(身延派)から改宗した会員宅を訪れると、学会の布教を阻止しようと目論む日蓮宗の僧侶に出くわした。

双方の話し合いは、やがて法論開催の誓約に至る--北国で突発したこの事件は、創価学会と日蓮宗の公開法論となり、1955(昭和30)年の3月11 日、伸一の司会のもと、学会は完膚(かんぷ)なきまでの大勝利を収める。歴史的な“小樽問答”であった。

この春、戸田は、統一地方選挙に同志を推薦する。仏法を生命に刻んだ人格高潔な人材を政界に送り、政治を民衆の手に取り戻すためであった。伸一が指揮をとった東京都議会の大田区と横浜市議会の鶴見区が最高点で当選するなど、全国で53人の同志が当選した。

会員の折伏の情熱は一段と増し、広布の上げ潮となっていく。さらに新潟大火災を通して、会員が得た信心の実証がつづられる。

第10巻 (「一念」「脈動」「跳躍」「険路」「展望」の章)

1956(昭和31)年初頭、伸一は一人、深い決意を秘めて大阪に向かう。

学会は7月の参院選に推薦候補6人を決定し、大阪地方区は春木征一郎が立つことになった。大阪の学会世帯数は少なく、常識的には敗北必至の情勢であった。戸田は、その最高責任者として、伸一を派遣したのである。「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」——伸一には、「信心で勝つ」との強い一念があった。強盛な祈りと最高の作戦・行動に徹した彼の激闘は、関西に「不可能を可能にする」勢いを生む。

そして5月には折伏11,111世帯の不滅の金字塔を打ち立て、参院選でも奇跡的な当選を実現させた。これが“常勝関西”の源流となる。

一方、学会全体では推薦6人中3人が当選。世間の注目を集めただけでなく、権力の圧迫の影もちらつき始める。「いやまして険しき山にかかりけり……」と詠(よ)んだ戸田は、伸一と壮大な広布の展望を語り合う。

第11巻 (「転機」「波瀾」「夕張」「大阪」「裁判」の章)

人生の短い残り時間をいかに生きるのか--戸田は大きな転機を感じ始める。

そして一切の事業から身を引き、広布の戦いに専念することを決意。1956(昭和31)年秋、伸一を責任者とした“山口開拓指導”が行われたのが突破口となり、爆発的な弘教の波が全国に広がっていく。

広宣流布とは、権力の魔性との戦いである。翌32年には、夕張の炭労(炭鉱労働組合)が学会との対決を打ち出し、組合所属の学会員を排斥(はいせき)しようとした。さらに、“炭労問題”が解決をみた直後の7月3日には、この年の4月に行われた大阪の参院補選を指揮した伸一が、選挙違反容疑で不当逮捕される “大阪事件”が起こる。学会の台頭に恐れを抱いた国家権力の陰険な弾圧であった。検察の取り調べは過酷を極め、“罪を認めなければ、戸田を逮捕する”など、脅迫にも等しいものであった。

伸一は、衰弱した師の体を案じて、一身に罪を被(かぶ)る。すべてを裁判で明らかにしようと決めて。2週間後に釈放された彼は、大阪大会で「正義は必ず勝つ!」と獅子吼(ししく)。だが、無実を勝ち取るまで、4年半もの法廷闘争を要することになる。

第12巻 (「涼風」「宣言」「憂愁」「後継」「寂光」「新・黎明」の章)

打ち続く障魔の嵐との攻防戦は、戸田を著しく疲弊(ひへい)させた。

彼は、1957(昭和32)年9月8日、横浜・三ツ沢の競技場での青年部体育大会の席上、原爆使用者を人類の生存の権利を奪う「魔もの(サタン)」と断じた「原水爆禁止宣言」を、遺訓の第一として発表した。晩秋、戸田は病魔に倒れる。だが、広布達成への強き一念で病を克服していく。この年末、戸田の願業の75万世帯が達成される。

1958(昭和33)年3月、戸田は、総本山で大講堂の落慶祝賀の総登山の指揮をとる。16日には「広宣流布の模擬試験」となる儀式を行い、広布後継のバトンを伸一をはじめとする青年たちに託す。そして、「追撃の手をゆるめるな!」との叫びを遺言として、4月2日、戸田は逝去(せいきょ)する。

師を失った悲しみを超え、実質的に学会の全責任を担う山本伸一。会員の間に第三代会長推戴の機運が高まり、1960(昭和35)年5月3日、戸田の分身の弟子は遂に会長となり、新たな黎明(れいめい)を開く舞台に立つ。

小説『新・人間革命』
『人間革命』要旨