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『人間革命』要旨1巻~6巻

第1巻(「黎明」「再建」「終戦前後」「占領」「一人立つ」「千里の道」「胎動」「歯車」の章)

1945(昭和20)年7月3日の夕刻、一人の男が、東京・中野の豊多摩刑務所を出獄する。

軍部政府の弾圧によって投獄されていた、創価教育学会の理事長・戸田城聖である。そこで彼が見たものは、戦火に焼かれた国土であり、誤れる宗教・思想に導かれた国民の悲惨な結末であった。彼は決意する。“民衆の真実の幸福を築くには、日蓮仏法を広宣流布(こうせんるふ)していく以外にない”と。

やがて日本は敗戦。戸田は、壊滅した学会の再建に踏み出す。「創価教育学会」の名称は「創価学会」に変更され、彼の出版社「日本正学館」には四散していた学会員が集い始める。11月18日、獄中に殉教した師・牧口常三郎会長の1周忌法要が営まれ、獄中で地涌の菩薩の使命を自覚した戸田は、「広宣流布は私がやる」と決意する。

翌21年が明けると、戸田は数人の同志に法華経講義をスタート。彼を中心にした広布の歯車が、少しずつ動き始めた。

第2巻 (「幾山河」「序曲」「光と影」「前哨戦」「地涌」「車軸」の章)

いかに遠くとも、広布(こうふ)の幾山河を踏破(とうは)するには、地道な一歩から始めるしかない。

1946(昭和21)年9月、戸田は、栃木・群馬へ戦後初の地方折伏(しゃくぶく)を行い、“妙法の一粒種”を蒔(ま)くことに精魂を傾ける。

11月、新生日本の象徴たる日本国憲法の発布と時を同じくして、戸田理事長のもと、学会は戦後第1回の総会を開催する。社会では労働運動などが激化し、政治革命への期待が広がるが、“真実の革命は宗教革命なり”と知る戸田は、泰然(たいぜん)と布教の指揮をとる。その薫陶のなかで、学会の青年たちは日蓮仏法の正しさを実感していく。

翌1947(昭和22)年の8月14日、蒲田で行われた座談会に、山本伸一という青年が出席する。彼は尋ねる。「正しい人生とは」「真の愛国者とは」……。伸一は19歳、戸田は47歳。戸田は、懐かしき師である牧口との出会いを思い起こしながら、伸一との邂逅(かいこう)に運命的な絆を感じるのであった。その10日後の8月24日、伸一は入信する。

第3巻 (「新生」「渦中」「群像」「漣」「結実」「宣告」「道程」の章)

1948(昭和23)年元旦、同志の惰性を戒めた戸田の指導から、座談会と教学を軸に目覚ましい活動が始まった。

戦時中に牧口会長が逮捕された伊豆の下田に赴いた戸田は、権力の魔性と獅子王のごとく戦った師を偲(しの)ぶ。
会員は皆、様々な人生の苦悩をかかえていたが、戸田の励ましを受けるなかで宿命を転換し、信心の歓喜と確信に燃えていく。

そのころ、伸一は、戸田の「日本正学館」に就職を勧められ、戸田と会い、即座に入社を決意する。彼は、このころの日記に、「革命は死なり。われらの死は妙法への帰命(きみょう)なり」と記していた。伸一には、戸田の弟子として、ともに宗教革命に殉ずる覚悟はできていたのであった。

同年11月、極東軍事裁判のA級戦犯への判決が宣告される。“勝者が敗者を裁く”というこの裁判を通し、戸田は戦争の本質を凝視(ぎょうし)する。

第4巻 (「生命の庭」「時流」「波紋」「疾風」「怒濤」「秋霜」の章)

1行目に「生命論 戸田城聖」と書いた原稿を前に、しばし熟考する戸田。

彼の脳裏には、仏とは生命なりと悟達し、地涌の菩薩の大使命を覚知した獄中での体験が去来する。生命論を基調とした仏法の新展開が始まろうとしていた。世界では朝鮮戦争が起こり、東西の対立は激化。人類を滅亡の危機に追いやる核軍拡競争の時代に突入していく。

一方、GHQが実施した「経済安定9原則」は民衆の生活を揺るがす。そのあおりで戸田の事業も悪化し、伸一が携わる少年雑誌も休刊。戸田は出版から金融業に転じるが、経営は逼迫(ひっぱく)し、彼は学会の組織に迷惑が及ばぬように学会の理事長を辞任する。その戸田を助けて、一人、懸命に奮闘したのが山本伸一であった。

伸一は詠(よ)む。「古(いにしえ)の奇(く)しき縁(えにし)に仕へしを人は変れどわれは変らじ」--1949(昭和24)年から1951(昭和26)年にかけての苦境下に織り成された、この師弟不二の秘史は、後の学会大発展の淵源となっていく。

第5巻 (「烈日」「随喜」「戦争と講和」「前三後一」「驀進」「布石」の章)

1951(昭和26)年5月3日、事業の苦難をすべて乗り越え、戸田は晴れ晴れと第二代会長に就任する。

その推戴式の席上、戸田は75万世帯の大折伏を誓い、それができなければ遺骸を品川沖に捨てよと叫ぶ。

時あたかも日本は講和問題を巡って揺れていた。その行方を鋭く見つめつつ、学会は新出発したのである。この年4月の支部の統廃合、聖教新聞発刊をはじめ、「学会常住」の御本尊の授与、御書編纂(ごしょへんさん)の決定、男女青年部結成、宗教法人「創価学会」の設立等々、戸田は短時日の間に着々と広布の布陣を整えていく。7月11日の男子青年部の結成式では、彼は、「ここに集まった諸君のなかから次の会長が現れるだろう」と語る。

翌年には、伸一が組織の第一線に躍り出る。彼が指揮する蒲田支部は2月に初の200世帯を超える折伏を達成し、驀進(ばくしん)の突破口を開く。一方、東北の仙台支部が躍進著しく、戸田は地方拠点の強化にも力を注ぐ。

第6巻 (「七百年祭」「推移」「余燼」「離陸」の章)

1952(昭和27)年4月27、28日には、総本山で「立宗七百年祭」が行われた。

大聖人の立教開宗から700年の慶事である。この折、戦時中、神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)の邪義を唱え、牧口会長を獄死させる原因をつくった悪侶の笠原慈行が、総本山にいることが明らかになった。義憤(ぎふん)に燃えた青年部員たちは彼を詰問し、初代会長の墓前に謝罪させたのである。“狸祭り事件(笠原事件)”であった。

ところが、邪悪を責めたこの行為に対し、宗門の宗会は、本山を騒がせたとして、戸田会長の大講頭罷免(だいこうとうひめん)、登山停止という不当な処分を決議する。青年たちは師匠を守るために怒りをもって立ち上がり、宗会議員に個別に面談し、不当な決議の取り消しを求めていく。最終的に、この問題は、戸田の処分なしに解決を見るが、学会はこうした宗門の権威的体質と戦いながら広布を進めていくことになる。

小説『新・人間革命』
『人間革命』要旨