法華経には28の品(=章)がありますが、その中から、なぜ方便品と寿量品を読むのかについてです。日蓮大聖人が「寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」(御書1202ページ)と仰せのように、法華経の「方便品第2」と「如来寿量品第16」の二つの品こそ、法華経の中でも、もっとも大事な法理が説かれていて、そのほかの品の意義も備わっているからなのです。
中でも自我偈は、寿量品の要約であり、法華経28品の魂であり、仏法の真髄です。大聖人は自我偈に説かれている永遠の仏の生命を御自身の生命に覚り、南無妙法蓮華経としてあらわされました。
その意味で、自我偈こそ南無妙法蓮華経をもっとも深く説明し、大いに讃嘆している経文なのです。
このような自我偈には、題目の功徳を助け現す利益があるので、大聖人も、諸天への供養や諫暁、故人への回向などをされる時は、「自我偈少少」(御書915ページ)等と言われて自我偈を読誦し、唱題されることが多くありました。
したがって、「方便品・自我偈の読誦と唱題」には、大聖人の仏法における勤行の本義と目的が欠けるところなく具わっているのです。
また、題目や経文の意味が分からなくても、勤行の功徳は変わりません。
例えば、外国語の意味が分からなくても、正しく発音すれば、外国語を理解している人には通じます。それと同じように「南無妙法蓮華経」の題目や、勤行で読誦している経文は、仏の世界に通じる“言葉”であると考えればよいでしょう。大切なのは御本尊を信じる心であり、讃嘆する心なのです。